■収穫して、味わって、いつのまにか近くへおすそわけ。 「おすそわけ」活動は、はじめから意図していたわけではありません。 なんせしろうとがはじめた農作業。確実に作物ができるかあやしいもの。だから本気で「おすそわけ」を考えていたわけではありません。 それがいつのまにかおすそわけをやっていた、というのが本当のところです。 そのあたりのことを以下に 少し思い出してみます。 思いのほかたくさん、りっぱなものがつくれた。いや「つくる」というより、野菜が勝手に「育ってくれる」のです。残念ながらこちらには「作った」という当事者意識があまりない。まさに「自然の恵み」がここにはある。おおいなる土壌の力、幸いなる天候、適度な雨、病害にやられることもなく、また教えてくれる人にも恵まれ、またわれわれ塾生側もイヤになることもなくつづき・・・。 おおげさですが、ここには人智をこえた自然の力がある気がします。 そうでないと最初からあれだけりっぱに育った白菜、ブロッコリといった秋野菜の見事さは説明できない。 ブロッコリは年をまたぎ翌春までわき芽が実となりつづけ。 白菜は雪にうたれながらも畑に鎮座し、ぎっしりと葉がつまり味の濃い、指導農家が驚くほどの大きさにまでなった。 たまたま何かの拍子で余分にもとれたし・・・それで少しあげたら、えらく喜ばれて。こちらもいい気になって、またあげたらもっと喜ばれて。 とまあこんなかんじで。そのうち引けなくなってきたようなものです。 もっとも、とれたものはまず自分たちで味わう、これが前提です。 自然の恵みは大きく、たいていは小人数ではとても食べ切れないほどたくさんの収穫ができます。 ましてや夏野菜になるときゅうり、ナス、インゲン、トマト、いずれも毎日取れるようになります。週一回の市民農業者に、毎日来いと畑が、作物たちがせがむ。放っておけば、木に負担がかかり樹勢が衰えるもとになるのです。 そこで交替で隔日で、誰かが畑に出て、とれたものは誰かにあげるようにしてと。それがやがて当番制となり、おすそわけ先もだんだん決まった先となり、徐々にあてにもされるようになり・・・・ついついやめにくくここまで来た。 ■ 収穫物だけでなく、体験も 「おすそわけ」は収穫物だけでなく、「畑や田んぼに入る体験」もりっぱなおすそわけに値するのではないでしょうか。 たとえば田んぼの田植え、稲を刈り取ったあとの田んぼ、収穫期の野菜畑、これらはたぶん、多くの人にとってものぞいてみたいと思わせるでしょう。 どろんこ田んぼはまちがいなく、子どもの世界です。はじめはおそるおそる、なかなか入ろうとしない。そのうち、一歩、また一歩。 ほかの子が入ったのを見ながら、いつのまにかキャーキャー言いながら、男の子も女の子も。 じっくりほぐされた田んぼは裸足でも安全。足先の泥の感触、これは一度でも経験するとなかなか忘れられない。